薫風雑話(抜粋)


文武館第二十五号掲載

渋川伴五郎時英が炎暑の時に涼をとりながら友人と交わした雑談を、その友人の奨めで一書としたもので、その時の状況から「薫風雑話」と題し宝暦九年に発行した。

薫風雑話 巻之一

                                          渋 川 時 英 記

一凡甲冑製の法は、中古以来明珍家を正作の家と立置れたる故、今に至ても明珍家を離て甲冑の正製を求る事を得ず。もとより鉄の精錬、仕立の故実等名、古より受伝る所の正法ありて、他家にて倣ふことあたはず。予が家君壮年の頃、日々に明珍大隅守宗介に出会、古作の目利、仕立の故実等巨細に学び得たり。目利の事は、中興元祖出雲守紀宗介よりして十代の内の物、其外義類信類等、皆其人々の手癖のきつかけ有之、それを能く見覚ゆれば、真贋新古各々分明に知る事なり。故実の事は、神功皇后の三韓御征伐の事の権興にして、都て甲冑の製法の事は、八幡坐の飾、九重座上玉を始て、四天の鋲、装束緒、瑞籬篠垂、竜頭、総角等、其外、身甲、頬甲、臂練、髀褌、脛?等の飾に至るまで、皆それぞれの拠ありて、徒に設たるものにあら優ずと云々。然れ共その故実とする事の中には、ふかしぎ事共十に七八にて、畢竟して見れば、是はかう、彼はかうと、上古より指定たることにてはなく、人々の好に任せ、時々の風俗に随ふごとく見えたり。子細は、家君は往年雄徳山に詣て、所縁ありて宝蔵に納らるゝ義家公の鎧旗等を一々手に取り見たりしに、今明珍家に受け伝へ、軍学者流に習ひ来る所の故実を備し製にあらず。頭甲は勿論、中興宗介よりも以前の宗丸、宗次などの類と見ゆ。大星の笊鉢なり、星の大、今の烟管の火皿ほどもあり、表方より鋲にて打付て有。八幡坐今の式装の九重坐上たまに非ず。やはり古法の三重計の座也。高勝?も今様とちがひ、外繋の?ほどもあり、甚だ丈夫なる物なり。毛は二百年計も以前に引直したるものと見ゆけれども、それもはや悉く朽て畳明のごとく成居たり。小手鑰の形今様とちがひ、内の方真直にて、外の方は成程今様の通に壺の形を横ざまに見るがごとし。大袖の笄板裏に打て有。又南都の興福寺にある義経公の鎧、享保年中浅草寺にて開帳の序に見せたりしに、是も兜牟の飾なく、今様の故実を備へず、吹返を見れば、いかにも古き唐真鍮にて作り、真の山水の模様を裏より打出して、真上に滅金を以て、丸の内に三菊の紋の活透にしたるを打付てありしとなり。是等を以て推し考れば、今様の故実々々とて大切にする事共、多く近世好事の者の妄意杜撰に出て、上古より指定たる事とは請取にくし。義経公、義家公など、其時の惣大将なれば、鎧の飾などは善実を尽し故実を備ふべき事なるに左なかりしは、今様の故実其頃よりの故実にあらざる証なり。又安芸候の家士森島求馬が曰、巌島の宝蔵に蔵、小松中納言の鎧の小札は、今の蔵半紙を四に折たる程の幅也。又足利尊氏の鎧の小札は、蔵半紙を八ツ折にしたる程の幅あるべしと、四折といへども、大抵二寸四五分の幅なるべし。八折ならば大抵一寸四五分の幅なるべし。当世の小札は一寸三枚重を大法とす。しかれば後世ほど小札の幅せばくなりたると見えたり。是亦今様の故実の疑べき一証なり。又曰、近年新井白石先生の撰なる、本朝軍器考といふ書あり。古今軍器の製を挙て、その故実沿革を具に記せり。人々白石の説を政党として信用すべし。都て今軍学者流の談ずる所、礼家者流の述る所を見るに、先その初め其説を立る人々、国習の麁陋に狃て、何も不学短才なれば、広く古記実談を考へて、其真偽邪正を弁じ、故実沿革を審にすることあたはず。徒に多を貪り得ることを務め、妄意に杜撰して一家の説を立置たるを、往々異見を加ふ者とてはなく、只そのまゝに受伝へたるものなれば、十に八九は疑しき事のみなり。又白石は本博学の大儒なれば、和漢の典籍を併せ考て、古今の沿革を審にし、家々の故実を究め、そのうへ国家の力を藉て、諸守諸社井諸候大夫の家に蔵る古物迄を、一々親見して折衷討論せらしものゆへ、其述らるゝ所詳悉精当にして、真偽邪正おのづから分明なり。大凡軍器の製法故実の弁にをいては余蘊あるべからず。よくよく熟翫すべし。

一凡近世の軍学者流、甲冑の製法に就て、第一に矢玉の通貫を厭出て、鉄厚なる道具を好む事は、誠に沙汰の限りの僻事なるべし。都て射手打手の習に、必貫く術あり必徹る理ありて、いでといふ日に成て、極めて貫ぬかぬといふことなし。其上兜?、頬甲、身甲など、真を上鍛にして鉄厚にせば、成程矢玉を受ても貫徹せざる様はあらんなれども、思に目など大切なる物なし。この防様を如何すべきや。縦五体をば残所なく防たりとも、目を失ひたらばいかなる勇者も、人一人の働なるまじ。況や人々の生付強弱の別あり、剛強たるものは重鎧を着て達者に働かんなれども、並々の者は成がたし。去れば真の軟堅を揀ぶも好程のあるべきことにて、矢玉の貫徹の論は姑く置て、自己の勇気を募て、気の炎先の尖々烈き場は、おのづから矢玉も前切て退く、此処の修練を第一に務たきもの也。さるゆへに吾党の習は、強く鉄厚を好まず、手軽して自由の働かるる様を専とする也。さて又、今の士大夫鎧製にのみ心を尽して、身の練習をするすべを知らず。厨子ばかり結搆にて、中は出来合の仏なる者十に八九もあるは、尤可笑事歟。

一凡太刀の長短大小井飾なども、右に論ずる甲冑と同例にて、好程のあるべき事也。子細は何ほど上作の丈夫なる道具にて、さて強力なる者にても、中々具の上より容易に截らるるものにあらず。又小兵非力なる者などは、長大の太刀刀を自由に使ふものあるものにあらず。しかれば是も人々の生付の大小強弱に応じて、自分の心に是でならば如何様の働もと、思ふ程を考へて帯するが肝要なり。されば吾党の習にて、従来鉄拵を用て随分上部に作らすれども、是も妄に上部を好むにあらず。柄を鉄にて張るは、糸がきれても跡の用立ためなり。雨にても魚皮のごとくほとびぬため也。?を鉄にてするは、何程勤ても銅のごとく切上りて窕かぬため也。その外縁頭鞘などの製法利方とも、皆古今を考へ合せ、実用を吟味して用ることにて、徒に道具の丈夫を恃み、無益の威猛を観ずにあらず。しかるに今の士人をみれば我が腕の程も弁ずして、猥に道具の丈夫を好み、我が腕を習すことを捨て置て、腰物の匁性吟味計を務て居る也。何様の上作名劒にても、自に抜出て働くものにあらず。何程丈夫なる業物なりとも、跡退りしながら振舞しては用に立べきものに非ず。下手の道具ゑらみと云諺実に戯言ならじ。

一今日の理窟をいへば、右いふ通なれども、都て武の事は先強味が本にて、丈夫を専にする事なれば、二ツ取には丈夫なる物を用ひ、成長は丈夫にして、その丈夫なる物を自由につかふ様に修練をすべし。先条の説は、当時我が腕のほどをも勘弁せずにして、徒に道具の丈夫を好と、我が腕をならすことを務めずして、匁性の吟味計をする不覚人を戒め¥たるもの也。

一偏に心得て本立の強味を取失ふことなかれ。昔、牛尾四郎左衛門といふもの、一生に七度まで捕者などして、至て功者なる男なりしが、常に人に諭して曰、抜さへせば成長長刀を帯すべし。つかわれさへすれば随分丈夫なる物がよろしと、流石場を踏たる者の詞と思はる。

○ 又日古老の説に、都て太刀刀の類を摺上げて用る者は、必武運に尽ると実に左もあるべきとなり。都て太刀刀を造るに、其初剣匠の意に長サを何尺幾寸、幅を幾寸何分、重を何分何厘、反恰好をかくかくと思究て、切物業物にせんと精神を入て打立るものにて、既に制しては霊のあるもの也。然るにそれを摺上げれば、その精神が脱て死物になる道理なり。武士の命綱にする腰物の性根をぬくからは、自然と冥理に戻る筈也。又出雲守吉吉武も必摺上物をし給ふべからず。譬ば人の長が高過たりとて、足音より切詰るが如し。反離者になりて全体の釣合がちがひ用立まじ。長きをば長を好む人に用ひさすべしといひしとなん。

一其候の宰臣何某といふ者、同家の器功者某が伝授を受て、明珍大隅守に銘じて過分の費用をかけ甲冑を製し、既に仕立が出来しゆへ、いざ着し試んとて、其師を招て手伝をたのみ、先犢鼻褌、襯衣を始て六具をしめ、小袴を着し、履をはき、前楯、脇楯をつけ、前立物脇立物を装ひ、太刀刀を帯し、妻手指をきめ、懐劔を用意し、腰兵粮を齎ち、其れ外小遣の金銀、用心の薬物等を佩き、さて釆を執て床机に腰をかけたる所は、いかにも一家の宰臣、一手の大将と由々舗見えたり。時にその師いざ歩行て見給へといふ、心得たりとて敵に臨む心を以て、床机をはなれて進んとせしが、痩馬に重荷とやらん働らく事は扨置、やうやうに座敷のうちをゑたりたりと、纔に三足ほどならでありくことならざりし。是上に記す厨子ばかり結搆にすることを知て、中の仏を吟味することを知らざる故也。よき後世の鑑戒なるべし。