中津藩


豊前中津藩における武術流儀
 中津藩に伝わった流儀と武技標目は下記のごとく。各師範・系譜については弊誌発行物に記述する。

兵学  甲州流
弓術  日置流印西派、日置流雪荷派
馬術  八條流、片山流
剣術  外他一刀流(二系統)、新當流、小野派一刀流、奥山流
槍術  風傳流(竹内則正流)、種田流、外他流、本間流
長刀  東軍流 
抜合  田宮流、立身流抜合
柔術  起倒流、吉岡流
棒術  天流
捕縄  剣流
砲術  長谷川流、磯流、西洋式大砲、西洋式小銃

木村安載入道の抜合
安載は中津藩の上等士族にしてにして通称を權衛門。入道して安載と號す。常に抜合を研究して大いに其術に熟達し立身新流抜合の師範となりて多数の門人を教養せり。其当時十二月一日節季候(セキゾロ)という非人が、赤染の前掛を着し、頭上に裏白(モロムキ)、その上に橙を頂きて異様の體をなし、年末年始の吉兆を唱え物を乞うの習慣あり。ある年例の節季候が門より入り来るを、安載直に刀を抜きて其の頭上にある橙を半分に切りたり。節季候大いに驚き恐れ死したる思うも、頭には何の障りもなく、ただ橙のみ二つに切れて両方に落ちたり。其の抜合術に妙を得たる事推して知るべし。

標葉甚助の四道師範
甚助は中津藩の医師矢野元甫の弟にて幼い頃より武術を志し日夜刻苦勤勉大いに上達して剣は黒田正員より小野派一刀流、槍は種田流を村上太忠治義直から学び、柔術を森下式右衛門から起倒流を、田宮流抜合を佐藤三彌に師事して四道の師範となった。藩主より格別の思いにより召し抱えられ一家をなす。常に勤倹を以て奢侈な世情に流されることなく自ら草履を造りて常に使用していた。

島田虎之助
中津藩外他一刀流剣術師範堀次郎太夫に学ぶ。江戸に出て男谷精一郎の門に入り熟達した。中津に門弟を連れて試合をするが、その暴勇な物言いに藩の師範・高弟が憤慨して試合を中止しようとしている。その時に、近傍に失火があり試合は中止となった。虎之助は三十九歳で死去するが、暴勇の癖が災いして毒殺されたとの噂もあった。
天保十年に伊東鹿之助直方と連名で勝麟太郎に発行した伝書は以下の通り。

初目録―手数之巻・四季之巻・初段之死活
後目録―観念之巻・月日之巻※・取合之巻・十五ヶ条之巻・銅鐸

楊心流柔術の伝書に酷似している。
※月日は「冫」篇に「月」、「冫」篇に「日」