特別編 一木天流


斉藤傳鬼房と天流
 斉藤傳鬼房を祖とする天流(一に天道流)は各地にその足跡を残した。発祥の地常陸国では天流の一木天流が筑波山麓にその系統を江戸中期まで、傳鬼房の門人多賀谷重経の系統が幕末までその流末を残した。この一木天流について語る前に、月並みではあるが流祖と天流の成り立ちに触れておきたい。

 天流々祖の斉藤傳鬼房勝秀(傳鬼坊、忠秀とも)は幼名を金平、後に主馬之助という。常陸国真壁郡新井手村(現在茨城県筑西市明野、注一)の出身で、初めに卜傳に新当流を学び、後、鎌倉鶴岡八幡宮に参籠して夢想を得て天流(天道流)と号した。『剣術系図』には天正九年十一月二十二日(三十一歳)とあり、一説に永禄九年十月十九日とするものもある(『日本武術諸流集』)。この鶴岡八幡宮における大悟について、夢想にて一軸を得たとか修験者が現れ教えを授かったという伝説がついている。この修験者との出逢いについて『本朝武藝小傳』に、

金平(傳鬼房の幼名)は幼少より刀槍の術を好み、鶴岡の八幡宮に参籠したときに修験者が同じく参籠しており、刀槍の術を語り合うこと終夜、肝心なところは仕合してその可否を吟味しているうちに、傳鬼は自然とその妙旨を悟った。早や夜が明け始めようとしたので修験者が別れて去ろうとした。斉藤傳鬼房が「貴方の術は何流というのか」と訪ねると修験者は答えず、黙って陽麗(太陽)を指して去り、いずこかへ行ってしまった。前に霊夢の瑞祥があったことで、今得た秘剣に天流または天道流と名づけたのである。
斎藤傳鬼坊(『武稽百人一首』)

 鶴岡八幡宮の兵法一巻が納められたという伝説にあやかったものと考えることができよう。とはいえ鹿島神宮、鞍馬山の鞍馬寺といった諸所に伝説が残っているので全否定するのは難しい。その昔、宗教の道を通って多くの文化が伝わったように武術(棒の手、等)もまた伝わった事実があるのだから。

 天流を開創した斉藤傳鬼坊は武者修行をしながら京の都にのぼり、参内を命じられて判官に叙任している。『剣術系図』には紫宸殿の庭上に召され、一刀三礼の太刀を上覧して、左衛門尉を拝命して井出判官傳鬼房と称したともある。斉藤傳鬼は父の代から北条氏康につかえて小番衆(近習)であったともあるので、何らかのツテのようなものがあったのかもしれない。都にのぼったときに京流を学んだ可能性も無いとは言えない。ただ斉藤傳鬼の門人が関東一円に多いことを考えると京の逸話がどのていど正しいのか不明ではある。しかし、そうった権威付けは当時としても影響が大きく、郷里に帰ってからの隆盛ぶりはその門人数を見ても明らかであった。
天流真傳之巻 巻末(文武館蔵)
 斉藤傳鬼房はひどく研究熱心で幼少の頃から新当流だけでなく京流・當流・陰流・一羽流(一波流)を学んだ形跡があり、また自流を広げるために羽毛の衣服を着て天狗の生まれ変わりあると宣伝した。

 斉藤傳鬼房の最後は、神道流の達人霞という者(桜井大隈守の子、『常陸国志』には霞之助)を仕合で撃ち殺した遺恨から真壁の不動野(現在の桜川市白井)で待ち伏せされて矢を射かけられた。傳鬼房は連れの門人を逃し、鎌槍で数十本の矢を切り落として奮戦するも多勢に無勢のため惨殺されてしまった。天正十五年、三十七歳(『常陸国志』)。後日、その怒気が土地に残り、奇怪なことがあったので、土地の人はここに傳鬼を祀り判官の社と称した(現存しない)。但し『天流正傳新当流兵法傳脈』には、塚原土佐守安幹の実子新右衛門安義の門人であったが、破門されたので天流を始め、三十八歳のときに真壁不動堂で病死したことが記されているという。新右衛門安義は早世しているので破門というより最後まで学ぶことができず、後、塚原卜傳に学んだと思われる。
天流五輪砕之段

一木天流
 斉藤傳鬼房の道統は実子の斉藤法玄が継いだ。斉藤法玄は身体軽捷で意気ある人で、斉藤傳鬼房の門人からも法玄に教えを請うものがあった。一木天流の祖小松一卜斎もまたその一人である。
 小松一卜斎の武技標目は神立家の天流掛け軸に「長刀一流、小具足一流、太刀一流、鑓一流、横手物一流」とあって、斉藤法玄―斉藤牛之助―日夏喜左衛門重能・・・と続く系統をみても、天流が早時期から綜合武術を形成していたことがわかる。

 祖は西藤傳久、斎藤伝鬼房勝秀のこと。俗に一木天流と呼ばれる系で、小松一卜(木)斎からの分かれである。小松一卜斎の系統は筑波周辺に江戸中期まで残った。大嶋文七は尾張智多郡横根村の人で中京区にも伝承があったことがわかる。

 天流真傳巻目録は、○面五組=天狗請・十二天・九ヶ・三大・加々利、○蔭七手=印・清眼・藤方・平勢眼・車・正面・忍掛り、○夜刀・蜻蛉・両歩剣・石割・天井・平板・後廻り・搦草、○九内=夜道・墓刀・押合・切合・左金・矢向・矢留・水刀・虎奔、○月内=鷹飛・獅々洞入・大剣・柄砕・剣砕・入江・出入・八方掛り・手拂・身拂・九尺刀・天火切・稲妻切、○五字大事=大天狗・小天狗・右剣・左剣・生知見

西藤傳久―西藤新左衛門―小松一木―塚原左門―小松市十郎―塚原傳西―浅井三之S―塚田傳木―大原惣十郎―喜多村佐右衛門―大嶋文七(寶永元年、一七〇四年) 

その他の系譜
@小松一卜斎――月岡一露斎―月岡一羽斎正秀―富永一得斎正矩―富永不撓斎政武―富永厭倦斎正信

A小松一卜斎―菊地清太夫―中野久兵衛

B小松一卜斎―月岡一露斎―月岡一羽斎正秀―富永一得斎正矩―富永不撓斎政武―富永厭倦斎正信

C小松一卜斎―木村右近丞―小林半次郎―飯村喜左衛門―小泉新七郎―橋本喜重郎―中里傳八郎

 又、多賀谷重経の系譜に飯村藤右衛門―小泉新七郎吉春の名前があり、上記Cの飯村喜左衛門―小泉新七郎と同一人物の可能性がある。多賀谷の系統は幕末の木村勇山まで伸びている。

現在の天道流

 天道流は著者の郷里常陸国で開創され、江戸時代には全国に広がった。しかし、戦前にはでは三田村家に伝わった一系統のみが残った。

 美田村家の伝承は美田村武子先生が亡くなり、門下生の木村恭子師範が第十七代宗家を継承して現在でも活動をしている。

 現在の天道流では小薙刀、大薙刀、組太刀、杖術、鎖鎌、二刀、小太刀、短刀(懐剣)といった武技を伝えている。

 郷里から広まった流儀が次の世代に継承されることを願って止まない。
天道流杖術

宗家継承のために美田村家から木村
恭子師範に譲られた天道流兵法の伝
書類

※誤字がありましたので青字で訂正いたします。